言語は人類の単一障害点か — バベルの塔とファンデーションモデルから考える

月寒

要約

言語は人類の最大の合理性であり、同時に単一障害点ではないか。

バベルの塔のストーリー構造

バベルの塔のストーリー構造はだいたいこんな感じだ。

そのとき、すべての地に住む人々は同じ1つの言語を使っていた。人々は、自分たちの存在を示し、また、人々がそこに集まり続けるために、より高度な技術(石の代わりにレンガ、漆喰の代わりにアスファルト)を使い、天にも届く巨大な塔と街を作ろうとした。神はそれを見て、人々がやり遂げられる可能性を認めると同時に、その事実とその傲慢さに対して怒りを覚えた。神は、人々が二度と同じことができないように、人々の言語をバラバラにした。塔と街はそれ以上作ることができなくなり、人々は散り散りになった。

参考:バベルの塔 — Wikipedia

後半に誤読回避の章を設けているが、事前にも説明すると、まずここでは宗教的解釈はしないし、目的にもしていない。あくまで単純化した物語構造から、現代においてどんな示唆を感じるか、という話をする。

物語構造に対する疑問

この話が、「人々の傲慢さが神の怒りに触れる」ことの教えだとすれば、装飾過多だと思う。子供の頃にも、そして今見ても、この設定なんなんだろ、と思う点がいくつかある。

まず、すべての地に住む人々は同じ一つの言語を使っていたという前提。そして、罰が塔の破壊や人々に対する痛みではなく、言葉をバラバラにすることで、自然に協力ができなくなる、という遠回りで、自然の因果関係を利用した方法であること。言語にこだわりがありそうに思える。

石の代わりにレンガ、漆喰の代わりにアスファルト。正直そこはどうでもいいはずだ。しかし二重に描写されている。

人々の極端な試みを「やればできそうなことだ」と認めた、というニュアンスもなぜあるのか不思議だ。傲慢さを戒めたいなら、むしろ非効率に働きかねない。

そして人々が団結することは悪いことなのか?なぜそれを神がやめさせたのか。神は傲慢を不能にしたのではなく、協力自体を不能にしている。人々が協力し合い、しかし神に対して傲慢ではない状態を、なぜ結末にしなかったのか。

ただ最近の世の中の動向を見て、このあたりが突然腑に落ちる感覚があった。というより、なんかこんな感じのイメージあったよな、、、あ、バベルの塔か、という感じで物語が思い出された。

バベルの塔の示唆

先に結論を言うと、この物語からは次の示唆を受ける。

  1. 言語という人類の最大の合理性、そして、言語という人類の単一障害点
  2. 集中の限界、秩序化には最終状態があること、秩序と散逸、動的平衡という自然の制約

これを前提にすると、上の物語構造の違和感は全て読み解ける。

言語が人類を全て接続し、1つにしている。全てを接続するとそれは閉鎖系になる。閉鎖系の中で、言語という1つのルールや技術を行き渡らせることで、その世界では非常に効率よく集中が進む。集中(リソースの獲得、予測可能な安定)は動物の本能で必ず優先的に求められ、少なくとも一般的な哺乳類や人間はそこに含まれる。

重要なのは、秩序は基本的に集中を導き、そして秩序にはそれを突き詰めた場合の最終状態がある、ということだ。それは秩序を強めると必ず反作用的に散逸を導く制約から逃れられないことを示唆しているように思える。人類の歴史はそれを繰り返してきているし、その根底にある生物の動態、さらに根底にあるエネルギーの、それぞれの制約とも、インセンティブとも整合する。

集中や閉鎖系と秩序によって生まれる。物語ではそのシンプルな究極例を取り上げて、それが人間には抵抗不能な力によって持続不能になった、というような顛末を描いている。そのような自然の制約を説明したものではないのか、という示唆を個人的に受けている。

それはやればできるかもしれない。でもやったらやったなりに、合理的帰結として抗えない力によって終末がより早く訪れ、最終的に集まった人々はバラバラになるのだ。そういう自然の摂理を学べる物語ではないか。

この個人的に感じる示唆が、社会制度・経済制度・テクノロジー(、そしてドル・英語)という特定の秩序のシナジーで加速する現代社会にとって、警鐘のように感じ取れる。

秩序

秩序の話はもはや別のトピックになってしまったので、記事を分けた。

社会、閉鎖系の観測、エントロピーや自然の動的平衡に照らした秩序と散逸の仕組み、に対する個人的な解釈を書いたものだ。(整理が不十分だが、一番書きたいことのひとつでもある。)

社会の閉鎖系と秩序化に関するメモ

社会制度、経済、テクノロジー

インターネット、物流、英語、ドル、テクノロジープラットフォーム。世界を1つの仕組みで繋ぐとどうなるか。私たちは「閉鎖系」と「秩序」を現在進行形で学んでいる。

すでに書いたが、制度やテクノロジーは良くも悪くも成果をより秩序的にする仕組みだ。秩序的であるほど、高速で、損失が少なく、広範囲に適用しやすくなり、生産性が高い。予測可能な脅威に対処できる。これらは制度やテクノロジーが目指すところそのもので、実際に相乗効果を生み出している。もちろん、ルールから逃げられては秩序が効果を失うので、これは閉鎖系とも動機やゴールを同一にする。

秩序や制度というとなぜか民主主義的なイメージを持つ面がある気もするが、実際には真逆の動きだと思う。制度は秩序化であり、合意を省略した上で何かしらのリソースの集中を生む。多様で大規模であろうしたことによる、妥協の産物か、あるいは何者かの政治的勝利を意味する。

そもそも、多様で大規模な社会では合意形成が不可能に近づく。特に、長期的ゆえに不確実なビジョンのために忍耐や損失を受け入れる必要がある、といった理性的な決断は不可能に近い。どうしても短期的で予測可能な自分の利益や安定など、本能的な判断が優先される。認知負荷の高い決断はそもそもメッセージ自体が届かず、認知的負荷の低いメッセージでしかコミュニケーションが取れない。それゆえに政治は必然的に市民と切り離されなければならなくなる。このような環境で制度を作るというのは圧倒的に政治で勝る立場でなくてはならず、逆の立場では実現しない。しかし民主主義はどちらかというと、その後者の立場にフォーカスするものだ。

余談:「成長」の解釈

AIオーナーによる「言語レイヤ」という人類の単一障害点のオーバーライド

経済、貨幣システムに相当するレベルの単一障害点にあたるのではないか。

人間社会のあらゆるものは自然言語で作られている。社会制度でもそうだし、知識や経験もそうだし、機械やソフトウェアの設計もそうだ。他人と共有可能にするためのほとんどすべて部分で自然言語が使われてきた。特に、社会の大部分に適用するような、法律、社会制度、経済、倫理などは、必ず自然言語で厳格に書かれている。

現在のファンデーションモデルの存在と、ファンデーションモデルに人々のコミュニケーション、社会インフラ、経済が急速に吸着していく様子は、その「言語という人類のハブ」を少数の主体がオーバーライドした、という様子をわかりやすく可視化しているように思う。

このあたりは蒸気機関や電力などの産業革命とは一線を画すところだろうと思う。

余談:「Atomic Heart」に感じる示唆

誤読回避:バベルの塔に関する

冒頭から前半に書いたバベルの塔に関する内容は、そのストーリー構造に対して、宗教ではない他の分野(社会、経済、技術)において個人的に得ているインサイトであり、宗教的インサイトではない。宗教的解釈やそれに干渉する意図ももちろんない。後半の内容とも無関係で、うまく話を分割できていないのは、これが私的なメモであることと、私の編集の未熟さによるものだ。

社会的機能として捉えた場合の仮説ないし個人的推察を一部記述しているが、それは宗教性について解釈する意図はない。長く語られている考え方、寓話や一般教育、慣用句などと同じように「それが社会機能として何かしらの意図から生まれたのではないか」という社会における機能性や歴史に関する想像ないし推察を書いたものだ。